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タートルズ (アメリカのバンド) : ミニ英和和英辞書
タートルズ (アメリカのバンド)[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

タートルズ (アメリカのバンド) : ウィキペディア日本語版
タートルズ (アメリカのバンド)[ちょうおん]

タートルズ (The Turtles) は、アメリカのロックバンド。主要メンバーでヴォーカリストのハワード・カイランマーク・ボルマンは、後にフロ&エディとして活動することとなる〔The Turtles official website 〕。1965年にボブ・ディランの「悲しきベイブ」のカバーがヒットし、知られるようになった。最大のヒット曲は1967年の「ハッピー・トゥゲザー」である。
== 経歴 ==

バンドはもともと「クロスファイアーズ (Crossfires)」と呼ばれるサーフロックグループで、1965年にカリフォルニア州ウェストチェスターにて、高校の学友であったハワード・カイラン、マーク・ボルマン、アル・ニコル、チャック・ポーツ、ドン・マレー、ジム・タッカーにより結成された。KRLAKFWBDJやクラブオーナーのレブ・フォスターの助けでクロスファイアーズはホワイト・ホエール・レコードと契約することに成功し、当時流行していた音楽性を固持するとともに、「タートルズ (Tyrtles )」という名のフォークロックグループとして売り出した。本来のタートル (turtle) という綴りを変えているのは、バーズビートルズに影響を受けたものであるが、この名称は長続きしなかった。
バーズと同じく、タートルズもボブ・ディランのカバーによって成功する。「悲しきベイブ」はビルボードチャートで1965年夏の終わりに10位を記録し、ファーストアルバムの表題曲となった。セカンドシングルの「レット・ミー・ビー」も30位となり、1966年初旬にリリースされた3番目のヒット曲「ユー・ベイビー」は20位に届いた。セカンドアルバム『ユー・ベイビー』は、チャート入りせず、商業的に失敗作となったが、このアルバムから1966年にリリースされたシングル「グリム・リーパー・オブ・ラヴ」や「キャン・アイ・ゲット・トゥ・ノウ・ユー・ベター」はチャートインを果たした。ウォーレン・ジヴォンによる「アウトサイド・チャンス」では、ビートルズの「タックスマン」のようなギターが加えられたが、チャート入りはしなかった。1966年、タートルズはユニバーサル・ピクチャーズのビーチパーティ映画『アウト・オブ・サイト』で、「シール・カム・バック」を歌った。
1966年の始めに、ドラマーのドン・マレーとベーシストのチャック・ポーツがグループを脱退。ドラムはジョエル・ラーソンとジョン・バーバータ、ベースはチップ・ダグラス(1966年10月)に交代した。1967年、リズムギターのジム・タッカーがバンドを離脱し、伝えられるところによれば、イングランドでプロモーションツアーをした際に、ジョン・レノンによって公式に侮辱されたという。ビートルズファンのタッカーは、この体験を忘れられず、グループや音楽ビジネスをやめた〔Howard Kaylan interview: "My Dinner with Jimi". ''Musoscribe.com by Bill Kopp Retrieved 18-02-11〕。
ゲイリー・ボナーやアラン・ゴードンと共作した最初の代表作「ハッピー・トゥゲザー」は、自身のほぼパロディ作で、すでに多くのパフォーマーによって拒絶されていた。「ハッピー・トゥゲザー」は彼らの最大のヒットで代表曲となり、タートルズやアレンジを提供していたチップ・ダグラスにとって転機となった。このシングルは、ビートルズの「ペニー・レイン」を1967年春の全米チャート1位の座から奪った。これはタートルズ唯一の1位ヒットであり、3週間トップにとどまり続けた。同名のアルバムも続けてリリースされ、最高位は25位。また、「ハッピー・トゥゲザー」は、イギリスで12位に達した。同年、タートルズは20世紀フォックスのベッドルームファース「プレイラブ48章」では表題曲(ジョン・ウィリアムズ作曲、レスリー・ブリカス作詞)を歌った。
チップ・ダグラスのスタジオアレンジメントに感銘を受け、ウィスキー・ア・ゴーゴーでのタートルズのショーが終わった後、モンキーズマイク・ネスミスがアプローチし、曲をヒットを狙って、彼をモンキーズの新しいプロデューサーとして招き入れた。ダグラスはこれを承諾し、タートルズを脱退した。
1967年は、音楽チャートにおいて、タートルズが最も成功した年といえる。「シード・ラザー・ビー・ウィズ・ミー」は春の終わりに全米3位となり、海外ではチャート入りしていなかった「ハッピー・トゥゲザー」がイギリスで4位となった〔。また、「ユー・ノウ・ホワット・アイ・ミーン」と「シーズ・マイ・ガール」もトップ15入りした。レコードの45回転盤の登場は、バンドスタイルを変更させるきっかけとなった。『ゴールデン・ヒッツ』は、この年の終わりにリリースされ、トップ10入りを果たした。アルバムカバーの似た『ザ・タートルズ! ゴールデン・ヒッツ』や続く『モア・ゴールデン・ヒッツ』は、ジャン&ディーンがデザインした。
1968年の最初の2つのシングル、「サウンド・アスリープ」と「ザ・ストーリー・オブ・ロックンロール」は、トップ100の中位にとどまった。チップ・ダグラスがスタジオワークに復帰した際、バンドの運命が変わった。1968年の終わりに、バンドはコンセプト・アルバム『ザ・タートルズ・プレゼント・ザ・バトル・オブ・ザ・バンズ』をリリースし、11のバンド(ビッグ・ブラザーズ、ネイチャーズ・チルドレン、ザ・US・ティーンズ・フィーチャリング・ラオル、ザ・ファブローズ・ダーグズなどという名前が付けられた)を装って、それぞれ異なったジャンルの曲を歌った。アルバムからはシングル「エレノア」と「ユー・ショウド・ミー」(両方とも最高6位)がリリースされ、「エレノア」はイギリスでも7位となった〔。1969年のヒット「ユー・ショウド・ミー」は、バーズのジーン・クラークロジャー・マッギンによって1964年に作られた。1968年2月26日に「マイク・ダグラス・ショー」というテレビ番組に出演し、1969年4月に2回目の出演をした。
1969年が終わる頃、グループは、キンクスレイ・デイヴィスによってプロデュースされた次のアルバム『タートル・スープ』をリリースした。1968年のコンセプトアルバム『ヴィレッジ・グリーン・プリザヴェイション・ソサエティ』に影響を受けており、デイヴィスが他のバンドの制作に参加したのはこのときのみである。「サムホエア・フライデイ・ナイト」や「ラヴ・イン・ザ・シティ」が収録されている。『タートル・スープ』はミュージックプレスから好評価を受けたが、商業的には成功せず、バンドは崩壊へと向かって行く。
このときまでに、レコードレーベルとの関係に長きに渡って幻滅を感じており、経済的な問題もあり、カイランとボルマンはタートルズを量産的なポップバンドに近づけようとするホワイト・ホエールのはたらきかけに対抗した。このレーベルはカイランとボルマンに、バンドやミュージシャンを雇ったツアーを休止させ、彼らのヴォーカルにメンフィス・セッションのメンバーの演奏によるバッキングトラックを追加するよう求めた。このような圧力を受け、バンドはシングル「フー・ウッド・エヴァー・シンク・ザット・アイ・ウッド・エヴァー・マリー・マーガレット?」を収録した。
タートルズは1970年に2枚目のコンピレーションアルバム『モア・ゴールデン・ヒッツ』とB面曲を集めた『ウドゥン・ヘッド』をリリースし、その活動を終えた。タートルズの活動終了を受け、ホワイト・ホエール・レコードからは、商業的に見込みのあるバンドも離れたため、営業を終えた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「タートルズ (アメリカのバンド)」の詳細全文を読む




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